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所蔵品ギャラリー

重要文化財

 
佐竹本三十六歌仙 紀友
Satakebon sanjurokkasen
伝藤原信実絵 伝後京極良経詞書
鎌倉時代 13世紀
 
佐竹本とは秋田藩佐竹家に伝来したことからの名称です。三十六歌仙を描く絵は、古来多くありますが、この佐竹本がもっとも古く優れているといわれています。1919年益田鈍翁らによって切断され、諸家に分蔵されたことで有名になりました。描かれた男性は、平安時代中期の歌人で『古今和歌集』の撰者の一人である紀友則です。
 
風濤図
Futozu
雪村周継 筆
室町時代 16世紀
 
雪村周継(1504-?)は室町時代の画僧です。雪舟等楊に私淑(ししゅく)し、関東・東北地方で活躍しました。この絵は秋田藩佐竹家に伝来したもので、暴風に翻弄される帆船が敢然と目的地に向かって進む姿を描き、小画面ながら力強い作品となっています。第2次世界大戦中、ドイツで公開された際に、ヒットラーから激賞され、また戦後にアメリカの5都市で開催された巡回展の際には、トルーマンの賞賛を得ました。
 
秋来偈頌
Shuraigeju
鎌倉時代   1330年
 
清拙正澄(1274-1339)は鎌倉時代後期に中国から帰化した臨済宗の禅僧です。1326年に博多に渡来し、当時の執権北条高時の招きにより鎌倉の建長寺に迎えられましたが、1333年後醍醐天皇の招請で京都建仁寺に移り、大鑑禅師号を賜りました。この書は1330年に上洛した際の感慨を詩にしたもので、整った字形で太く力のこもった書です。
 
 
白雲偈頌
Hakuungeju
宗峰妙超筆
室町時代 14世紀

宗峰妙超(1282-1337)は、鎌倉時代後期から室町時代初期の臨済宗の禅僧です。播磨国の生まれで南浦紹明に師事しました。のちに花園上皇・後醍醐天皇の帰依を受けて、竜宝山大徳寺を建立し開基となります。この偈頌は『碧巌録』「盤山三界無法」の頌にある語句で、悠々として無碍自在の大人格たるをいいます。その書も気宇壮大で厳しくも豊かな書です。茶の湯では「大燈国師」とも、また「開山」と呼ばれてその墨蹟が珍重されています。
 
寸松庵色紙
Sunshoanshikishi
伝紀貫之筆
平安時代   11世紀

寸松庵色紙は、紀貫之(868?-945?)筆と伝わっています。『古今和歌集』の四季の和歌を書きつけた粘葉装の冊子本の断簡で、1枚ごとの色紙の形で伝来しました。胡粉で花襷文がある料紙は中国で作られました。その書は柔軟な筆先に弾みをもたせており、優艶にして格調高いものです。また、左右の2つの群にした散らし書きが、作品に奥行きを持たせています。なお書かれている和歌は『古今和歌集』巻五秋歌下にある菅原道真の歌です。
 
讃岐入道集
Sanukinyudoshu
藤原定家・民部卿局 両筆 
鎌倉時代 13世紀
 


『讃岐入道集』は、藤原顕綱(1029-1103)の家集で、顕綱が讃岐守に任じられ、また入道したことでこの名があります。『顕綱集』とも呼ばれています。顕綱は平安時代後期の後三条天皇の廷臣で歌人です。この『讃岐入道集』の筆者は藤原定家(1162-1241)と民部卿局(1195-?)と伝えられています。民部卿局は定家の娘で、為家の姉にあたります。本名は明らかではありませんが、後鳥羽院に仕えて民部卿局と呼ばれました。
 
千鳥蒔絵面箱
Chidorimakiemembako
鎌倉時代 14世紀
 
洲浜(すはま)を研出蒔絵でぼかし、千鳥を意匠化し、千鳥が群れをなしてうねるように飛ぶ様子を面箱全体に巧みにあらわしています。もとは化粧道具などを入れる手箱(てばこ)として作られたものを、足利義満(義政とも)が所持した際に底部に台を付け、合口の錫縁を取りはずして改装し、愛蔵の能面を納めました。それ以降、面箱として伝わっています。

重要美術品

山水図
Sansuizu
伝珠光筆 景徐周麟讃
室町時代 15世紀
 
わび茶の祖とされる珠光(1423-1502)は、室町時代中期の僧とされますが、その生涯は未だ明らかになっていません。画事もよくしたと伝えられ、数点の作品が伝世していますが、その画風は一定ではありません。その中でこの絵は、古くから有名なものです。上部に薄く墨を掃いて雨上がりであることを示し、まさに一艘の舟が帰らんとしている情景を濃淡のはっきりした筆致で描いています。
 
法華経断簡
Hokekyodankan
伝藤原行成・藤原公任筆
平安時代 11世紀

薄い藍色の唐紙に唐草紋を刷りだした料紙に、『古今和歌集』巻第四秋上に収録される壬生忠岑の「山里は」の歌を散らし書きし、さらにその余白に法華経譬喩品の語句を書き加えたものです。藤原行成と藤原公任はともに平安時代中期の公卿ですが、仮名は行成、経文は公任の筆と伝えられています。制作時期は11世紀中頃以降と考えられています。整然と書き付けられた端正な楷書の経文の中に、流麗な仮名の散らし書きが対照的で、優雅さを醸し出しています。
 
 
多賀切
Tagagire
藤原基俊筆
平安時代 1116年
 
『和漢朗詠集』巻下「将軍・刺使」の部分を、平安時代後期の歌人、藤原基俊(1060-1142)が写した断簡です。多賀切は、もともと巻子本二巻でしたが、陽明文庫に所蔵される下巻の巻尾の奥書から、基俊が1116年に筆写したものであることがわかっています。多賀切の名称は、旧蔵者と伝えられる旗本多賀左近に因むといわれます。漢詩と和歌を交互に書き付けていますが、漢字、仮名とも躍動的な書です。
 
後水尾院筆大聖寺宛書状
Gomizunooinhitsu daitokujiateshojo
江戸時代 17世紀

第108代後水尾天皇(1596-1680)は、江戸時代初期の天皇です。2代将軍徳川秀忠の娘和子を正室として迎えましたが、朝廷に対する幕府の介入に反発し1629年に明正天皇に譲位しました。一方和歌や茶の湯、立花などに造詣が深く、修学院離宮を営むなど文化面での活躍は特筆すべきものがあります。この書状は娘の大聖寺門跡の健康を気遣うものです。このような仮名の散らし書きによる書状の形式を「女房奉書」といいます。
 
文茄茶入
Bunnachaire
南宋時代 12-13世紀
 
「文茄」とは、茶入の形について文琳とも茄子とも決めがたい中間の形ということで付けられた名称です。古い茶会記には複数の存在を確認することができますが、伝世するのはこの茶入のみと考えられています。もともと利休が所持し、その後丹波園部の小出家に伝来しました。釉薬は黒みが強く、底近くまで全体にかかっています。やや下ぶくれ気味に膨らんだ胴に、胴紐はかなり低い位置に認められます。
 
赤楽茶碗
Akarakuchawan
樂道入作 銘 若山
江戸時代 17世紀
 
樂3代道入、通称ノンコウ(1599-1656)は江戸時代初期の陶工で、樂家歴代中の名工として有名です。この茶碗は「ノンコウ七種」の中の一碗です。胴部に強いへら目を残しながらも、ゆったりとした雰囲気を漂わせています。高台の周辺は三角形の形に釉薬を掛け残し、高台には釉が掛かっていません。やや小さめの高台内部に道入の楽印が捺されています。
 
草廬三顧 蕭何追韓信図屏風
Sorosanko Shokakanshin oouzubyobu
与謝蕪村 筆
江戸時代   18世紀
 
「草廬三顧図」は『三国志』の三顧の礼の故事にもとづき、劉備らが諸葛孔明の庵を訪れる場面を、「蕭何追韓信図」は、漢の高祖劉邦のもとを去ろうとする韓信を名宰相蕭何が追い、思いとどまらせた故事を描いています。与謝蕪村(1716-83)は江戸中期の俳人であり画家です。この屏風は、蕪村50歳前後のいわゆる「屏風講」時代のもので、はつらつとした筆致が随所にみられ、その部分部分に晩年の画風に繋がる表現が認められます。
 
早苗尉
Sanaejo
室町時代 15世紀
 
尉は男性の老人を意味しますが、尉面はそれだけではなく神の化身として神霊的な性格を持っています。尉面には様々な種類ありますが、その中でもこの早苗尉は、どの尉面にも属さない大変珍しいものです。表情が写実的で古様をとどめているところから、室町時代に作られたと考えられています。
 
竜女
Ryunyo
室町時代 16世紀
 
能面で眼のところに金泥が入っているのは、この世のものではない存在であることを表しています。この竜女(竜宮に住む竜王の娘)の面は他の霊的要素を持つ女面に比べ、さらに目を強く表現しています。また髪は海水で濡れ、乱れた様子を繊細な線で表しています。能の演目「海士(あま)」、また「鉄輪(かなわ)」に使用される珍しい面です。

その他美術品

 
妙一字
Myo ichiji
千利休 筆
桃山時代 16世紀
 
千利休(1522-91)が「妙」の一字を書き、自らの花押(けら判)を署した色紙大の遺墨です。利休の書状は数多く見かけますが、このような大きな字はきわめて珍しいものです。柔らかい筆致で、端正な「妙」の字を書き付けています。祖父利休の直筆であることを証した、千宗旦(1578‐1658)の極書を添えて表装しています。
 
楓図
Kaedezu
酒井抱一筆
江戸時代 19世紀
 
姫路藩主・酒井忠以(ただざね)の弟として生まれた忠因(ただなお)(1761-1828)は、抱一と号して気楽な風流生活を楽しみました。尾形光琳に私淑(ししゅく)し、琳派風の作品を多く残しています。この絵も琳派の特徴である「たらし込み技法」などを駆使して紅葉した楓の葉や幹を描き、抱一画の特徴がよく現れています。連作の中のひとつ、という説もあります。
 
交趾大亀香合
Kochiogame kogo
明時代 17世紀
 
交趾大亀香合は、幕末に作られた『形物香合番付』の東一段目大関、つまり最上位にあげられるほど高く評価されています。交趾焼とは16世紀末から17世紀初めにかけて福建省南部の窯で焼かれたやきもので、そこでは型作りの蓋の付いた容器(合子)が数多く作られましたが、多くのタイプが日本に輸入されました。交趾大亀香合もその一種です。この香合は、雲州松平家に伝来しました。

織部梟香合
Oribefukuro kogo
桃山時代 17世紀
 
織部焼は、古田織部が指導したと伝わるやきもので、桃山時代に主に美濃地方で作られました。形を歪ませたりした大胆な造形と意匠が特徴です。織部焼のこの香合は、全体に白土を塗り、頭頂部・前脚部・尾部に緑釉を、目・嘴・羽に顔料を置いています。底部は無釉で火土と呼ばれる赤茶けた発色があらわれています。

色絵翡翠香合
Iroekawasemi kogo
仁清
江戸時代   17世紀
 
仁清は、轆轤(ろくろ)遣いが巧みなことで知られていますが、雉子香炉(きじこうろ)など象形ものも得意としています。この香合も、黒・赤・茶・白・緑・金などの釉薬を用い、くちばしをまっすぐ上に向けた翡翠のすがたを造形し、愛らしい作品に仕上げています。蓋の内部は無釉、身の内部には外側と同じ白釉を塗っています。底には枠なしの「仁清」小印が捺されています。

灰被天目
Haikatsugi tenmoku
南宋時代 13世紀
 
灰被(はいかつぎ)は天目の一種で、灰を被ったように釉薬が見えることからの名称です。雲州松平家に伝来し、『雲州蔵帳』に「灰被 切八 金百両」とあるのがこの天目をさすものと思われます。「切八」とは道具商の伏見屋のことです。黒っぽい土の上に釉薬を二重に掛け、下釉の端がやや白黄色を呈し、片身替風(かたみがわりふう)に上釉の一部が銀化しています。松平家でつけられた天目台は、青貝で七宝と唐草文を表しています。
 
彫三島茶碗 銘 池水
Horimishima chawan Mei Ikemizu
朝鮮王朝時代 16世紀
 
いわゆる檜垣文と印花文で装飾された彫三島茶碗は、天正8年(1580)以前の遺跡から出土していることから、16世紀の後半には釜山近辺で生産されていたと推定できます。ただし韓国の陶磁史で粉青沙器に分類される三島手とは、技法的にも、それぞれが醸し出す雰囲気においても全く異なります。この茶碗は遠州所持と伝えられており、箱表に「池水 高麗」と記し、別に「松島やをじまのとまもわがやどにうつしてぞみる庭の池水」と書いた小色紙が添います。
御本立鶴茶碗
Gohon tachizuru chawan
李朝時代 17世紀
 
寛永年間に3代将軍徳川家光が立鶴の絵を描き、小堀遠州が朝鮮に注文したとの伝承があり、御本茶碗を代表するもののひとつとして古くから有名です。これは数多く伝わる立鶴茶碗のなかで最も艶やかなできばえであり、大振りではあってもすっきりした感じに仕上がっています。遠州が愛玩した後、松平不昧に渡り、『雲州蔵帳』の「上之部」に「御本立鶴 伏見屋切八 金十枚 位三百両」と記録されています。
赤樂茶碗 銘 獅子
Akaraku chawan Mei Shishi
樂長次郎 作
桃山時代 16世紀
 
表千家6代覚々斎(1678-1730)が「長二良赤茶碗 銘獅子」と箱書し、松平不昧が包み裂と外箱表に書き付けています。いわゆる宗易形の茶碗で、首部にややくびれが見られます。釉薬はかせて枯淡の趣をかもしだしています。釉薬が流れて、場所によっては細い線のように見えるところがあり、これを獅子の毛なみに見立てての命銘でしょう。
高取焼茶碗 銘 香久山
Takatoriyaki chawan Mei Kaguyama
江戸時代 17世紀
 
黒田長政(くろだながまさ)に従って来日した朝鮮の陶工八山(高取八山)が、藩命により筑前福岡の鷹取(たかとり)山に開窯したといい、のち白旗(しらはた)山に移り、水指・茶入・茶碗などの名品を焼造しました。類似する作品は現在いくつか数える事ができますが、この「香久山」は小堀権十郎が命銘したもので、半筒で二重釉、輪高台に下面取となっています。平戸松浦家伝来。
鼠志野茶碗 銘 横雲
Nezumishino chawan Mei Yokogumo
桃山時代 17世紀
 
黒みを帯びた鼠色のなかに、寂がかった赤味が幾筋か現れており、これを夕焼け雲に見立てたものです。小堀権十郎の命銘によると伝わります。片側に檜垣文を、もう一方に籬文をつけ、大きく雄渾な口造りと大らかなうねりに、いかにも桃山陶らしさを感ずることができます。昭和15年(1940)鴻池家の入札の際に野村得庵が入手しました。
仁清 金筋茶碗
Ninsei kinsuji chawan
江戸時代 17世紀
 
黒地に緑と赤で花菱文を描き、銀彩地の菱文で繋ぎ合わせ、各々の文様を金彩でくくっています。更に胴の下部は太い金筋を加えて豪華さを強調しています。高台は真円形で、仁清印が捺された上から黒釉が置かれ、意識的に印影を隠しているところから「隠印」又は「隠文字」の呼称があります。
染付山水図茶碗 
Sometsukesansuizu chawan
陳元贇(ちんげんぴん) 作
江戸時代 17世紀
 
陳元贇(1587-1671)は、中国明からの亡命者で、儒学をよくし主に尾張名古屋に住みました。尾張徳川家の御庭焼、御深井(おふけ)焼で作陶に従事したこともあり、染付を中心にいくつかの作品が遺っています。これは沓形のやや背の高い碗で、高台は低いですが大きく洲浜形をなしています。外面に安南茶碗を思わせる淡い呉須で山水文を描き、口縁も呉須を塗り廻しています。手取りはやや重いです。
薩摩焼 荒磯絵茶碗
Satsumayaki araisoe chawan
江戸時代 18世紀
 
薩摩焼は、旧島津藩領の薩摩・大隅で焼造されたやきものです。豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮の陶工によって始められました。華やかな錦手で特によく知られています。本品は、きめの細かい土に畳付を残して白釉を掛け、その上に荒磯文を描いています。魚体や飛び散る波沫などに金泥を惜しみなく使っています。高台は四角で、その廻りに朱・青・緑・紺の釉薬で宝相華文をめぐらしています。江戸中期に竪野系の窯で作られたものでしょう。
秋草絵茶碗
Akikusaechawan
永楽保全 作
江戸時代 19世紀
 
永楽保全(1795-1854)は幕末の京都の陶工です。西村家10代善五郎了全の養子で、11代を継ぎました。この碗はきめの細かな土で、やや背の低い茶碗に仕上げています。高台周辺を半月形に残して白い釉薬を掛け、その上に薄や女郎花など秋草を丁寧に絵付けし、さらに鉄を幕のように2か所、口縁から内外面に垂らして全体の雰囲気を引き締めています。なお高台脇に「河濱支流(かひんしりゅう)」印が捺されています。

白色尉(翁)
Hakushikijo(Okina)
桃山-江戸時代 17世紀
 
翁は他の能面とは異なり、顎(あご)のあたりを切り離し、口角あたりを左右紐(ひも)でつなげた「切り顎(きりあご)」が特徴としてあげられます。この面は、面裏にある彫名などから室町時代に制作されたと伝わってきましたが、近年の研究により桃山時代から江戸初期頃に作られたと考えられるようになりました。


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